リトルアリョーヒン

星新一という作家がいます。
千編を越える短編を残し、独創的なストーリーと飄々とした文体で今も多くのファンに読み継がれる「ショートショートの神様」。

彼はそのほとんどの作品で登場人物に固有名を与えず、「エヌ氏」という三人称を好んで使用しました。
理由を問われて彼は

「自分は学生の頃に太宰治の文章を読んで圧倒され、熱心なファンになった。
何の因果か作家を職業にすることになったが、あの美しい文章には絶望的にかなわない。
劣等感に苛まれずに仕事を続けるためにはどうすればいいかと考え、
自分の作品では感情のない無味乾燥した文章に徹する事にした。」

というような事を答えています。

小説は文字による表現ですから文章そのものの力は非常に大きいものです。
文章表現の個性を「文体」などと言ったりしますが、この文体は作家の考えや性格を色濃く反映します。

会話の端々に現れる言葉使いや声のトーンで「あ、この人苦手だな。」とか「気持ちのいい人だな。」と感じる事がありますが、小説の上での文体はそれにあたるのでしょう。
例えば如何に巧みな構成で物語が進行しようとも、文章そのものに違和感を感じてしまうと作品を楽しむことが出来なってしまい、大変残念な思いをする事があります。
逆になんの変哲もない物語でも、表現の美しさに魅せられてつい引き込まれてしまう作品もあります。

小川洋子という人の小説は、正に後者に属します。
華美さや派手さはなく、むしろずいぶん控えめな語り口調ですが、登場人物達の内面の感情や思いがひとつひとつ、愛情と細やかな気遣いをこめて丁寧に積み重さねられていきます。
彼女の文章を読んでいると水たまりのボウフラにすら愛おしさを感じてしまう、というところでしょうか。

ところが所々にさりげなく、ずしんと重たい現実を、それも文章の最後に仕込んでおく強かさも忘れません。物語は急展開を遂げ、新しい章へと誘われるのです。
彼女の小説では大概の場合、社会や組織の中心からは少し外れた場所にいて何か重たい現実を背負って生きている人物が描かれますが、この作品「猫を抱いて象と泳ぐ」はチェスをする機械人形「リトルアリョーヒン」にまつわる物語で、主人公の青年の境遇はやはりとことん悲劇的です。
舞台は異国のようでありながらデパート屋上の象や停車ボタンのついたバスなど昭和の日本を連想させる部分もあり、登場人物達は空想と現実の間のような不思議な空間で物語を展開します。

悲しみを抱えているから優しくなれるのでしょうか。
優しさと愛情を素直に受け止める事ができれば、人は幸せになれるのでしょうか。

矛盾は空想世界においておけるので、
悲劇的な境遇とは正反対の幸せに満ちた彼の物語を素直に受け入れる事ができ
とても優しい気持ちになって最後のページを閉じました。
小説本には随分ご無沙汰していた僕ですが、感動を再び思い出す事ができました。


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