三好山の山城

高槻の北の端に、摂津峡と呼ばれる渓谷があります。

急峻な岩壁に囲われ、大きく湾曲しながら進む流れには、
ヤマメ、アユなど清流を好む川魚が棲み、
初夏から秋口にかけての行楽シーズンには
釣り人や家族連れでおおいに賑わいます。

その渓谷の崖に北西南の三方を囲われているのが『三好山』。

応仁の乱の勝者である細川氏を下克上によって滅ぼした後
近畿一円を支配下に置いた三好氏という一族がありました。

彼らが築いたわけではないらしいですが
拠点としていた山城が、そこにあります。


三好山に登るには、
唯一崖に阻まれていない東側へ回り込みます。

芥川の流れに沿って大きく左へ曲がる
摂津峡への道を右に折れ、
山間の住宅地を少し登るとすぐ、
のどかな段々畑の風景に変わります。
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LeoPanda旅に出る そこをさらに登り、
季節外れのカエルがさんざん声を上げる池を過ぎると、
西側の三好山へ別れる山道に出会います。
薮をかき分けながら山道を行くと、突然植生が変わって竹薮が現れました。
元は人工的に成らされていた所に、成長の早い竹が根を張ったものなのでしょう。

登山道の小さな石碑が、
山城の跡であることを示しています。
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LeoPanda旅に出る 山頂に辿り着くと、急に視界が開け、
一段高く土塁が積まれています。
ここにはかつて本丸があったそうです。
北摂を見下ろす見晴らしのいい場所に、
三好長慶を祀ると言われる祠がぽつりと置かれていました。

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畿内支配の拠点であったこの城に住んだほんのひとときの間、
彼の手は天下を掴みかけていたのかもしれません。

彼の死後すぐ、この城は信長に攻め落とされ、
三好氏は凋落してゆきました。

信長の台頭によって、城は山上の要塞である必要がなくなりました。
最後の城主であった高山友照・右近の親子が高槻城に去ったとき
この城は放棄されたといわれています。

廃城となったこの城は今、芥川山城と呼ばれています。




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