葦牙(あしかび)のごと萌え謄(あが)る物に因りて成りませる神の名は、
宇麻志阿斯訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神。
古事記に豊かな表現でその誕生を記された原始の神は、
次の行でいきなり「隠れ」させられてしまいます。
なんとも不自然なこの筋立ては、
そこに不都合な事実が潜むことを示唆しているようにも思えます。
都合の悪いことを認めたくないのは人の性。
力ある者に気を使い、情報に手心を加えるのは今も昔も変わらないもの。
ナサケを報じると書いて「情報」とするこの国では
事実は幾重もの情けに包まれて
やがて本質を見失っていくことが定常化されているのかもしれない.......。
なんて、
太古の昔から水辺に茂る葦の芽を眺めながら
そんなことを考えてみました。
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